幼時から神童と称され、宇多天皇の厚いご信任のもと、遣唐使を廃止するなど政治の中心でも活躍し、八九九年(昌泰二年)には右大臣に任命されます。しかし、左大臣の藤原時平らによって大宰府へ左遷され、失意のうちに亡くなります。逆境の中でも国家のご安泰と天皇様のご平安を念じられた道真公は、神の御位に昇られました。学問に秀でていたことから学問の神、文化の神として長く人々の信仰を集めています。 |
天照大神の第二子。出雲一族の記録「出雲国造神賀詞(いずものくにのみやつこのかむよごと)」には、母・天照大神から「地上の統治者、大国主命を説得して国を平定させたと記されています。しかし、「日本書紀」には、大国主命に心酔して、そばに住み着き三年間連絡を怠ったという記述も残っています。豪族の祖神は、その地の国土開発や産業振興の守護神として信仰され、農業、養蚕、木綿の神として祀られています。 |
垂仁天皇の時代に当麻毛蹶(たいまのけはや)という強力で鳴らした者がいました。天皇が出雲の国の野見宿袮という勇者を探し、勝負させたところ野見宿袮が勝利。以来、相撲の祖と呼ばれるようになりました。 |
今から千年以上前、節摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着きました。これは、菅原道真公が配流された大宰府の地で自ら作られ、海へ放された七天神のうちのひとつと伝えられています。 |
時代は、応仁の乱から戦国時代へ。貴族社会から武士社会への国の仕組みが大きく変化する中で、天神社は厚い道真公信仰に支えられていました。 |
明治維新は、国政をはじめ、さまざまな分野に大きな変化をもたらしました。そのひとつが神道と仏教を分離する「神仏分離」制作でした。徳川幕府が行ってきた、神仏まざり合った宗教制度を一新して、新政府による神道国家を確立するために、神道と仏教を明確に分離する方針を示しました。 |
戦争の世紀と呼ばれた二十世紀。なかでも第二次世界大戦は日本に大きな惨禍をもたらしました。戦争が激しさを増した昭和二十年、堺もこの年だけで五回の空襲を受けましたが、なかでも七月十日の大空襲では死者一八六〇人、被災者数七万人という甚大な被害を受けました。菅原神社も戦火により、随身門と金毘羅宮を残して建物や宝物が完全に焼失しました。 |